ひろいの徒然ブログ

アパレル生産管理自営の日々や子育て

【アパレル雑談 1900年代のおしゃれさんやサヴィル・ロー】②お仕事の徒然

おはこん失礼。ひろいです。

先日のお話ででてきた一部の話を交えつつ、オシャレさんやおしゃれイラストを

参考文献をもとに載せてまいります。自分の勉強ついでにブログで皆様にも。

先日の記事でご紹介したエドワードさん達の御用達のお店がサヴィル・ローにあるということからサヴィル・ローについてをもう少し詳しく書きます。そこに存在した人もあわせて。

このエリアはこの時代のおしゃれの根幹のひとつとも取れるので

スーツの流行のことも交えます。

 

www.hiroitoshoten.work

 前回のお話は添付のものです。よければ暇つぶしにどぞ。

 

さてエドワードさんが贔屓にしていたお店 ヘンリー・プールはサヴィル・ローにあるテーラーです。

サヴィル・ローはロンドンのピカデリーの北側にある一画の総称です。19世紀の初頭からテーラードの中心でした。究極の伊達男として有名(?)なボー・フランメル(ジョージ・ブライアン・ブランメル)は当時流行していた華やかで美しい気取った服装を拒絶し、最高級の生地を一流テーラード技術で仕立てることを奨励。上品で控えめであることが 究極のおしゃれだと身を持って人々に示した人です。

 ブランメルの影響力は絶大で、消費市場が拡大 リージェント・ストリートとその周辺の商業地区が発展したのはちょうどその時期と重なっていることからも伺えます。

 時を同じくして紳士クラブがおしゃれな男性の社交場となり、それに伴って生活必需品を提供する商売が発達してきます。仕立て屋は当然のように酒屋や家具商(シャツやネクタイを当時はあつかっていた) 帽子屋 タバコ屋 靴屋 靴下屋 床屋 トルコ式銭湯  入れ墨店などはその頃に店舗を増やしてます。

 前回も書いたのですが、当時サヴィル・ローやその周辺地区は男にとって暇つぶしができてしかも泊を付けることができる場所だった。

一方でリージェント・ストリートやピカデリー・サーカス バーリントン・アーケードのほうは売春婦がうろつく地域として知られてました。そこはまさに男に支配された男の世界で、両家の子女が足を踏み入れることはめったにない場所でした。

 

ヘンリー・プールのお店も「ビスポーク」(顧客にあわせて洋服を仕立てる)を専門とする用品店の一つで、そういう店が多く軒を連ねているのがサヴィル・ローでした。

 

当然のことにありますが、そんな界隈で洋服を作れるだけのお金持ちは限られていて、大半の人はもっと値段の安い地元の洋品店で買い物をしてました。19世紀の半ば頃に百貨店が登場してくると既製品もますます手に入りやすくなります。

 

テーラードの基準が多様化してきてその一方で上流階級や中流階級人々が洋服を選ぶ基準は第一次世界大戦後も大きな変化がなかったようです。公の場やそれに準じる場所ではフロック・コートかモーニングを着用。普段着ではスリーピースのサック・スーツ。別名ラウンジスーツとはシングルかダブルの腰丈のジャケットに共地のベルトとズボンを合わせるスタイルのこと。

つまり今で言うビジネススーツが特別正式な場をのぞいてどんな場面でも広く着られていて戦前に流行したくだけた感じのシルエットのかわりに流線型のスタイルが登場してきた。それとは別で帽子は必須アイテムとなっていて、シルクハット、労働者のワークキャップ 帽子をかぶる習慣は19世紀半ばまで続く。

 

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フロック・コート姿のオペラ歌手 ロバート・ラドフォード

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百貨店The House of Kuppenheimerの広告

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合わせがシングルのモーニングコート フロック・コートより略式とされていた

最後の写真は1900年頃。

真珠のタイピン リボンの靴ひもの革靴 おしゃれと今でも思えるスタイル。

スーツの着こなしはこの頃からかなり確立されていたのがわかる

 

やはり僕のブランドはこの時代から勉強させていただくことが増えそうだ。

では今回はこの辺で。ではまた